昭和40年9月19日 朝の御理解



信心をさせて頂く者の、中心ともならなければならない物。それは、「あなたのおかげで」と、「神様、あなたのおかげで」と。「金光様、本当に貴方のおかげで」と。「親先生、ほんとに貴方のおかげで」と。そういうものが、一つの信心の中心をなしていなかったら、私は、信心が危ないと。私の力。私が参っとる。私がお願いしよる。私が拝みよると。お参りさせて頂きよるのであり、拝ませて頂きよるのであり、「ね」。分からせて頂きよるのである。もう一つ、そこんところがですね、私共の信心の柱とも、中心ともなる思い方というのは、どうぞ、貴方のおかげでということだと思う。本当に、貴方のおかげで、貴方のおかげでというものでなからんとならん。おかげが本当のことになってこない。「ね」。
昨夜のお月次祭に、先日から、熊谷さんのお導きで、えー、吉井の教会の御信者さんが、あ、もう、熱心に、教会の前に座っておられたそうなんですけれど、息子さんが、その、奇病ですね。お医者では、どうにもいけないという病気にかかられておる。それで、あんたが病気はもう、医者でもいかん、神様でもいかんばいち言われて。そこでその、ま、神様にでも御願いしてから、そこに、希望を持ったのだけれども、そういう風な意味を、よう言われるもんですから、ま、心迷うておられるところに、椛目の話を聞かれて、熊谷さんに一遍、連れて参ってくれというて、その、その時、何かの都合で出来なかった。それで、自分達親子二人でお参りして見えられたんです。私は、それをあの、知らなかったんです。だから、そんな訳で、熊谷さんのお知り合いであることも、吉井の人であるということも。そしたらあの、えー、桂 松平先生の、あの、お姿をちらっと拝みましたからね、ははあ、この人は私は、信心がもう、相当高尚な人だなあと、こう思うたんです。だから、小倉関係のやっぱり、御信者さんだろうかと思うて、それでその前日から、小倉に皆さん、お礼に出られたときに、小倉から頂いて参っておりました、御神米がありましたから、ここの御神米と、小倉の御神米を、二体、三体下げさせてもらいました。それで、そのことを申しましたら、もう、私はそれこそ、永年吉井の教会で、信心の稽古させて頂いておるものだということでした。それでその、息子が申しますのに、椛目なら僕は参るち言うてから、申しますから、これからどうぞ一つ、子供のご信心のお引き立てを頂きますようにと言うて、御願いをして帰られたら、昨日は、また、別なご信者さんが、お導きして参ってこられた。教会のご親戚に当たられる方らしいですね。えー、福岡の平尾教会の吉野という先生の、いとこさんでもありゃ、二日市教会の千草という先生の、やっぱ、いとこさんにも当たられる方だと。あちらの奥さんかなんかの。という様な事をいっとられましたけれど、もう、ほんとにあのう、今日は、永年信心させてもらいますけれども、本当の信心が、少し分かりかけたような気がすると言うて、昨日、喜ばれたんですけれどもね。そんな方のお参りが、夕べ、あっておりました。それでもう、そこで、お祭りすんで、お茶でも差し上げておりましたもんですから、いよいよ、終のバスになった。それでその、終のバスの時間になったから、さあ、皆さん、波多野さんやら熊谷さんも一緒に、その、外へ出られたんですけれども、待てど暮らせどバスが来ない訳なんですね。もう、行ってたらしいんです。「ね」。それで、また、ここへ引き返して見えられてから、最後のお届けが済んでしもうてから、皆が、御祈念させていただく時間までおられました。それで、そのう、私がほんなら送りましょう、僕が送りましょうというふうにその、送ろうという人が何人もあったんです。それで、結局、正樹さんが送って下さったんですけれども、んー、時に上野さんに、最後の御祈念終ってから言うんですねえ。吉井からお参りの皆さん、もう、最後のバスがなくなっとったから、しもたということはありますまいがと私が言うた。「ね」。もう、本当に金光様のご信心ばっかりはですね。もう、みんなおかげなんですから。いやあ、おかげ頂いたという気になったら、かならずおかげ頂きますよと、私が言うた。「ね」。皆さんが帰って見えたときに、私が言うた。いやあ、それは、おかげ頂いたねえと、私が。何がおかげやら分からなかった。「ね」。バスに遅れたことが、何がおかげじゃろうかとこう。けれど、金光様のご信心ばっかりは、おかげで、おかげでという中からおかげが生まれて来るんだと。「そりゃ、困ったの」「そりゃ、どうすんの、ほんなら」「歩いて行かにゃんたい」「そりゃ、タクシーなっと呼ばじゃこて」と、いったようなものであってはならないということ。いやあ、おかげ頂いたということ。見てみなさい。いや、さあ、おかげ頂いた。ほんなら、貴方をやっぱりお送りしようという人が、何人も在るんですよ(笑い)と言うて。大変喜んで帰られたんですけれど。「ね」。「んんー」。
神様におかげを御願いする。本当に神様が、氏子の本当の幸せのおかげを下さろうとする、御願いをするから、お働きが始まってくる。「ね」。氏子がままになるおかげを頂かせて下さろうとする為に、神様は、ままも炊いて下さる。「ね」。御つゆも炊いて下さる。まあ、ちょっとお煮付けの一つも作って、そして、本当のままに、本当の意味でのままになるところの、おかげを下さろうとする働きが始まる。それで、もう私達が、地団太踏んで、さあ、もう、と、こう言うもんだから、「ね」。お白湯もなからなければ、まあだ、御つゆも出来とらんとに、まあだ、ご飯のゴチゴチしよるごたるとを、その、無理を言うて頂くようなことであったら、どういうことになるだろうか。「ね」。神様には神様のご都合がある。その、ご都合と言うても、神様中心のご都合でない、氏子中心のご都合である。氏子に、真実のおかげを渡したい。本当の、このことによっての力を与えたい。「ね」。このことによって、おかげを頂かせたい。という神様の願いがです、「ね」。ままになりたいというおかげを頂く。願うのでございますから、神様が、ほんなら、ままだけじゃいかん。御つゆも作ってやらじゃこて。お煮付けの一つもと、こう心使こうて下さっているのである。ご飯も、出来立ての、ほっくらっとしたご飯も、頂かして下さろうとするのだけれども、てんで、もう、やあやあ言うて、ですから、いわば、ご飯のまあだ出来ておらんごたる、ゴチゴチのご飯でままになるといったような、おかげではいけないのである。そこでその、私共が、いわゆる待たせて頂く間がですたい。「ね」。仙台藩の、あのまま炊き場じゃないですけれども、ままは、まだかいと言うて、二人の子供達が、正岡にせがみます。「ね」。いわば、侍の子というものが、そんなにガツガツしては可笑しい。「ね」。侍の子というものは、腹が減っても、ひもじいなどと言うてはならん。と言うて、その、ままの出来よる間をです。「ね」。あの、まま炊き唄のところです。まま炊き唄を歌うてから、子供達と一緒に、ままの出来るのを、待たせるようにです。それこそ、騙し透かしして、ままの出来るのを、待たせてくださるんだけれども、どうしてこんなに、おかげが頂けんだろうかとこういう。その、まま炊き場のその間のです、「ね」。唄でも歌うておるうちに、心がまぎれるのである。そこんところを、見方によっちゃ、皆さんはもう、皮肉だとか、または、うー、神様も大体おかげを下さるとじゃろうかというような、思い方になってくるのであるから、その間をです。私共の心をまあ、紛らかす意味においてです、まま炊き唄の、いわば、ままの出来る間をです。まま炊き唄を歌わせて頂いておくのでなからなければ、ならないとこう、私は思う。また、そういう、働きが在ると。「ね」。「よんべ、ござった花嫁ご」と。いうような歌が在りますよね。「一羽の雀が言うことにゃ」という、ああいうその、それを歌うておる、その間にその、ご飯が出来てくるわけなんです。「ね」。だから、信心させて頂くものは、その、間のその、まま炊き唄というものがです。「ね」。教えを頂かせて頂くと、というだけではなくて。私共の、信心の中心になるもの。それが、私は、もう一切が、貴方のおかげでという、おかげになって来なければいけないと、こう思う。
昨日、私は、今度、そういうお届けを何人からも聞かせてもろうた。昨日も、お食事の時に、久保山先生が、私に言われるんですよ。「親先生、本当に、親先生は、ここでこうやって、椛目でこうしたご信心をしてくださるようになってから、以来本当に、ここんところ、大風の害というものが無くなった」「必ず椛目を中心にしてからそれる」椛目をそれるということは、九州が助かる。当然、もう、例えば、九州に上陸するはずの、風がいよいよ来るかという寸前に、必ず横へ散ってしまう。それで、親先生のご信心のおかげでと。私は、私のおかげと思いませんけれども、しかし、何人もそれを信じてる人があるんです椛目には。例えばほんなら、甘木の初代なら、甘木の初代がです。あの太刀洗の爆撃のときなんか、他のものは全部非難させて、ご自身一人が、御祈念なさったということですねえ。おかげで、甘木の杜は助かったと。桂先生の祈りが、小倉を救うたと。大阪の玉水の教会の、ごひれいがです、あの一角をです。いわゆるその、爆撃を受けなかったと。それこそもう、あの辺は全部あの、鉄筋コンクリートの大きな、朝日新聞だとか、毎日新聞のあるところですからね。繁華街なんです。勿論、玉水の教会なんかは、木造建てなんです。その、周囲が、全部焼けてしまっとるのに、あの一角だけが、焼けてないです。ですから、あながち、私は、そういうひとつの、信心というか、徳というものの、それを信じさせて頂いたら、私は、そういう事になってくるのじゃないでしょうかねえ。本当に、神様のおかげでと。金光様のおかげでと。親先生のおかげでと。そういう私は、椛目にご縁を頂かれる方は、そこになからなきゃいけんと。もう、親先生貴方のおかげでというものが、無からにゃいけんのですけれども、貴方のおかげでという思いが、芯からのものでない証拠にです、「ね」。貴方の言うことを効かんじゃないですか。「ね」。本当に、貴方のおかげでと、そういう、貴方のおかげでというようなものがです。お互いの信心の中心にならなければいけないと。でなかったら、どうでも、ままの、いただき急ぎをするのだということ。ちょうど、今申します、お月次祭が済んでから、吉井の方達が見えておるときに、ちょうど、その田代さんやら、高芝さんやら、夫婦が、あのう、そこに挨拶に見えた。吉井のご信者さんですから、知っておられるだろうと思うて、一緒にそこで、こちらに入りなさいと言うて、お茶をあげたんです。途中まで言いよってから、私はあの、今晩の月次祭には、皆に大事なことを言わんならんことを、一言忘れとったち言うてから、ま、高芝さん、こらもう、あんたどんな、おかげ頂いたよと言うてその、頂き忘れておった、伝え忘れておったことを、あそこにおった五、六人の方に聞いてもろうた。というのはね、あの、昨日の御祈念の中に、こういうお知らせを頂いておったんです。昨日の、おー、お互いがです。ただ、おかげ欲しやの、信心ではいけないという事なんです。「ね」。もう、おかげが頂きたい、おかげが頂きたいというのじゃいけないということ。それを、私が、山口の、たきびの先生の例を持って、申しましたですよね。どうぞ先生。せめて、ご本部参拝でもさせて頂くならばです、「ね」。一車両づつぐらいは、ご本部参拝のおかげを頂きたいと思いますから、そのことをお取次ぎ下さい、お願いして下さいという手紙が来とった。それで、私が、それに対する返事をです、そげん、もう、七十人でん、八十人でん、一車両てんなんてん、もう、限定しなさりますなと。神様、一列車でも、二列車でも、おかげ下さろうとしてござるやら分からんじゃないですかと。「ね」。ただ、そういうおかげをいただけるようにという願いではなくてです、もう、限りない神様の働きと、おかげを、力を頂かせてもらうことを、一生懸命にならして頂きよれば、八十人も、百人も、二百人でもの、例えば、ご本部参拝の頂けるようなおかげにもなってきましょう。という様な事を、私が、言うてやろうという風なことを、昨日申しましたですよね。いわゆるその、こういうおかげを頂かせてください。と、限定しては惜しい、信心が。頂きたいなら、そういうおかげの頂けれるです、準備を先ず、先にしなさいと。いわゆる、おかげが欲しい、おかげが欲しいという信心ではだめと。といったようなことを、申しましたですね。なぜそういうたらいけないかということを、忘れとったんです、昨日。なぜ、おかげ欲しや、おかげ欲しやと、そら、始めの人は、誰だってそうなんです。「ね」。おかげ頂きたいばっかりに、参ってくるんですよ。けども、おかげを頂きたいから、御願いをするけれども、御願いをしたが最後、もう、あなた達は、任せなければいけない。「ね」。お取次ぎを頂いたらもう、御結界中の願いをここに、置いてしまわなければいけない。そして、神様が下さろうが、下さるまいがです、「ね」。ただ、その下さった時のおかげを受ける力というものを作ることに、先ず一生懸命になれば、それでいいんだと。「ね」。ただ、おかげがほしい、おかげが欲しいということになるとですね、欲しい、欲しいは、めぐりになると仰るです、神様が。ほんとおかげ頂きたい、おかげ頂きたいと、御願いはいいんですよ。けれど、それはですね、もう、本当にそのう、願うたことを、当てにするような信心じゃいかんと。痛けりゃ痛い。かゆけりゃかゆいとやっぱ、願いたいのです。「ね」。けれども、それが願うてもよし、頂けんならです。本気で一つ、分からしてもらうところを分からしてもらい、努めるところを、努めさせてもらい。努めるところを努めんどいてから、「ね」。おかげ下さい、おかげ下さいばっかり言いよるとその、おかげ欲しや、おかげ欲しやと、欲しい、欲しいのめぐりになるです。それでもまだ、欲しい、欲しいというから、神様が、さっきの御理解じゃないですけれども、「ね」。ほっこらっとしたご飯を、いや、それには、御つゆも作ってやろう、お煮付けの一つも、作ってやろうと、そして、氏子の本当に喜ぶ、足ろうたおかげを下さろうとしている、神様に地団太踏むようにして、おかげをせがむから、まあだ、ご飯のでけとらん、ゴチゴチのごたるご飯で、ままになるというようなことだから、本当のおかげにならんのだと。「ね」。欲しい、欲しいで、例えば、腹いっぱいになってもです。そいうおかげは本当のおかげではないから、ゴチゴチご飯で、ままになったようなままでは、いけんのです、いけんと。さあ、こげん無理して、御願いしたっじゃけん、貰うたっじゃけんで、今度は、欲しい、欲しいがですね、もう、今度は、惜しい惜しいになると仰るです、次には。欲しい、欲しいはめぐりになる。それが次には、惜しいになる。もう、折角、貰うたっじゃけん、誰にもやらんというふうな、いわゆる、惜しいになってくるんです。四神様の御教えのなかにもです、「信心さして頂く者が、惜しい、欲しい、憎い、可愛いをとったら、おかげじゃ」と、仰います。私がいつも言うように、限りなく美しくならせていただかにゃという。「ね」。折角、頂いたおかげで、汚くなるために、おかげを頂いたんじゃ行きますまいが、「ね」。しかも、頂いたそのおかげをもです。さっきからの話じゃないですけれども、私が、一生懸命になったけん、私が働いて、それが良かったけん、こげな、おかげば頂いたごたるふうに、なってしもうて、もうそれを、いわば、欲しい、欲しいに、が、惜しい、惜しいになってしもうて、おかげの頂ききらない、がらんがあり、また、出来るようなもの。なるほど、欲しい、ほしいは、めぐりになるというのは、そういうことじゃなかろうかと私も思う。「ね」。ちゃあんと、こちらも、いよいよ、いかん時には、神様が、おかげを下さる。しかも。ほっくらっとしたご飯に、それに、例えば、御つゆも作って下さりゃ、その、お煮付けも作って下さる。それを、頂いてから、有難いとこう、言うのでなからなければ、真実の有難いというおかげには、なってこない。足ろうたおかげ。「ね」。
お互いの信心の中からです。欲しい、惜しいをなくする意味合いにおいてでも、私共が、いわゆる、本気で、貴方のおかげでという、信心が中心。それが、私どもの、信心の柱にならなければならない。皆さんの信心の中心がです。「ね」。本当に、貴方のおかげでと。本当に貴方のおかげでという、その、喜びが、一杯であるときにです。私共が、おかげが待ち長いといったような、欲しい、欲しいを言わんで済むのである。もう、貴方のおかげでという信心に、心酔うておる時なのだから、有難いというときには。「ね」。貴方のおかげでというものが、ここにないから、地団太踏んで、おかげ、おかげを、欲しい、欲しいを言わなければならないんです。しかも、欲しい、欲しいで、貰うたおかげは、惜しい、惜しいに繋がってくるということ。「ね」。そこに惜しい、欲しいの、そのことが、そのことがまた、めぐりになってしまうような、事では、折角のおかげが、本当のおかげにならんでしょうが。「ね」。皆さんは、知んなさらんでしょうけれども、私共のように、もう、永い信心を頂いとります者は、それを頂いてみて、はっきり、なるほどと、合点するものがあるんです。「ね」。七十年にも、八十年にもなったような教会、例えていうなら、久留米の教会あたりにです。私共が、若い時分には、それこそ隆々たる、あちらの教会の、信者さんであり、世話人であり、総代であるといったような方達がです。もう、陰も、ほろけも無くなっているというようなのが、沢山あるのですから。では無くても、おかげを地に落としてしもうとる人が、沢山あるのですから。「ね」、一つの、徳の前にです、おかげを欲しい、欲しいといや、その徳のおかげでです、やはり、おかげは貰うてきた。けれども、ゴチゴチご飯のような、おかげを頂いてきとるものだからです。「ね」。欲しい、欲しいが、惜しい、惜しいになってしもうて、本当のおかげになっていないということ。それが、たった何十年か、二十年、三十年しとるうちにです。もう、そういう信心の徳というか、信心の面影すらなくなってしまうようなことになってしもうておる。「ね」。本当に信心を自分のものにするために、本気で、貴方のおかげでっと言う、信心を実感されれるおかげ。「ね」。そして、もう、足ろうたおかげを頂けるのをです。待たせて頂けれるところの辛抱。その辛抱も、只で辛抱するのじゃない。「ね」。内容に、やはり山に登るのが楽しいと、言う楽しいその、おかげを頂かせて頂きながら、私は、おかげを待たせて頂くのである。「ね」。いわゆる、神様が下さろうとするおかげを、こちらが、頂きとめれる力を、養うてもろうておる。その、力がです。私は、徳だとこう思う。「ね」。ほんとその、おかげ、急ぎをしてはいけません。信心を急がにゃいけません。信心を分からせて頂くことに焦点を置かなければいけません。どうぞ一つ、皆さんがね、欲しい、欲しいのめぐりを作らんように。本当に神様に頂いたおかげと思うて、親先生の頂いたおかげと思うて、金光様の頂いたおかげなんだもの。それが、金光様の前に行出される。それが使われるのが、何が惜しいが付くものか。親先生のおかげで頂いたんだもの。さあ、親先生がいるとおっしゃりゃ、いつでも、裸にでもなれるというようなです。美しい心というものが、私は生まれてこなければ、信心の本当の値打ちにもならなければ、その、信心のおかげがです、また、おかげがおかげを生んでいくようなおかげには、ならないと思う。私は、思うですね。どうぞ。